━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (きょうのテーマ) 文屋座に込めている想い その2 鍵言葉は「交流」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ********************** ★「文屋座」という名の文化サロン★ ********************** 文屋は3月19日(土)午後、 東京・御茶ノ水にて、 2016年春の文屋座を開きます。 高野登さんさんのご著書 『おもてなし日和(びより)』 の出版を記念して、 井内由佳さんをスペシャルゲストに お迎えして、開催します。 当日までまだ2か月ありますが、 すでに全国から(沖縄・福岡からも!) 60人以上のみなさまが、 申し込まれています。 文屋座は、 「書き手と読み手と作り手による、 出会いと学びと語らいの文化サロン」です。 年に数回、開いております。 通常は、 第一部の「学び座」にて、 13時30分に始まり17時まで、 3時間半のビジネスセミナー。 第二部の「語らい座」は、 18時から20時30分まで2時間半の 交流パーティーという、 二部構成で、 通算7時間の長丁場です。 文屋は、 本から生まれるご縁や発想などの 「ものごと」、 本が秘めた可能性を、 いっぱいに引き出したいと 願っております。 このことを総じて「こと養(やしな)い」と 呼びます。 「こと養い」の場として、 平成23(2011)年より「文屋座」を 開催しています。 文屋座に限りませんが、 文屋座のような文化サロンの運営、 「こと養い」こそが、 文屋の目的だと考えております。 わたしがこのように考えている 理由の原点を考えてみました。 その原点は、 わたしが小布施人(おぶせびと) であることと、 深いつながりがあることに、 気がつきました。 ********************** ★世界一有名な日本人が愛したまち★ ********************** 小布施町には、 葛飾北斎(1760年〜1849年)の 肉筆画を収蔵展示する 「北斎館」があります。 江戸時代の後期、 北斎さんは晩年の80歳代に、 スポンサーとなった小布施の豪農商で、 文化人の高井鴻山先生 (たかいこうざん)に招かれ、 小布施に滞在しました。 「4回」とされる長期滞在中に、 畳21枚分の大きな鳳凰を描いた 天井絵(岩松院)をはじめ、 多くの肉筆画を残しました。 北斎さんは、 代表作に『富嶽三十六景』や 『北斎漫画』があり、 ゴッホやモネなど、 当時のフランス印象派の画家らに 多大な影響を与えました。 米国の雑誌「ライフ」による企画 「この千年で 偉大な業績を残した世界の百人」に 日本人で唯一選ばれたこともあります。 つまり、 小布施町は、 「世界一有名な日本人」である 北斎さんが、 90年の生涯を閉じる直前の 80歳代に暮らし、 「創作人生の結晶」を生み出した まちなのです。 スポンサーであり、 最大の理解者であった鴻山先生の 存在はもちろん不可欠のことです。 しかし、 晩年の北斎さんが、 小布施に暮らして 創作活動を続けた背景には、 鴻山先生のご家族や使用人たち、 鴻山先生を囲む地域の文化人たちが、 魅力的であったことが 容易に想像できます。 絵を描くことに疲れたら、 散歩をしたり、 知り合った村人の家で、 お茶をして、 語り合ったこともあったでしょう。 北斎さんが暮らしたということは、 鴻山さん一人の魅力だけでなく、 家人や村人、そして、 小布施の風土そのものを、 北斎さんが気に入り、 愛した証しだと思います。 わたしたち小布施人の心には、 「世界の北斎さんが愛したまち」 に暮らすことの 「ほこり」という 「文化資源」が宿っています。 北斎さんと鴻山先生の出会い、 北斎さんと当時の小布施人との 「出会いと学びと語り合い」。 これを総じて、 「交流」と呼びます。 小布施町の町長の市村良三さんが 町政を運営する上で、 一貫して、 一番大事にされている理念も、 「交流」です。 「交流」をキーワードに、 まちづくりをつづける小布施に、 生まれ育ったわたしが営む 文屋が、 創案して、 つづけているのが、 「文屋座」という文化サロンです。 次号では、 こうした小布施の歴史から生まれた 独自の「思想」ともいえる、 「まれ人みな北斎論」 をご紹介しますね。 ********************** ★きょうの気づき★ ◆「世界一有名な日本人が愛したまち」 に生まれた、「こと養い」の「文屋座」を これからも、つづけていきたい。 ◆小布施のキーワード「交流」。 じつは、すべての家、会社、地域が、 鍵言葉にすべきは「交流」なのではないか? **********************